お知らせ

 

明日 藁科川解禁

台風一過の晴天でしたが曇ってきました。
明日6月1日は藁科川の鮎解禁日。
花を探しながら河原へ足をのばしました。
川は昨日までの雨で写真(朝5時)の様な状態。とても川には入れません。
小学校を卒業して産女に転居した私は、町の子から田舎の子になるべく、勉強そっちのけで野山の遊びを学びました。
メジロ獲り・蕨・鮎・クルミ・山桃・グミ・・・・なつかしいなー
その当時の解禁日は多くの釣り人が集まり、夜明け前から竿を出していました。
私もわくわくしながら出かけ、学校登校前の短い時間でしたが楽しんだものでした。

今は産女の前は友釣り・石川釣りの専用区域になりましたが、以前はなんでもありの区域で、囮鮎を動かし、石を見る技術もいらない「ゴロ引き」という釣りが私の釣り方でした。
「ゴロ引き」はオモリの先に5~6本のハリを仕掛けて、川に投げ入れハリに魚を掛ける釣り方で、全天候型、濁っているとかえってハリが魚に見えないようで、鮎だけでなく、様々な魚が釣れました。
ですから、よほどの大水でない限り解禁日はお祭りで多くの釣り人で賑わいました。
又、その当時は魚が多くいたんですね。只ひたすらハリに魚が掛かるのを待つ釣りですから。
やがて資源保護の点からこの釣りは一部地域を除いて禁止となり、川の状態で左右される友・石川釣りの今日では、明日は静かな解禁となりそうです。

ところで、釣り人と云うと『漁夫生涯竹一竿』の句を思い起こします。
「山僧活計茶三畝」に続く句で意は寺の生活の簡易にして自給自足、清貧に安住した修行三昧の様子を云ったものであります。
この軸は一休禅師の書で大塚工藝社による工芸品で古書売り立てで求めたものです。
30代の頃、友人との酒席で『花と龍』を替え歌にして、
「坊主稼業で生き抜く俺は・どんな苦労も承知のうえだ・木魚たたいて御先祖拝む・これが男だ・これが坊主さ・・・・」なんて歌ったものでした。
良き時代を思い出しましたが、鮎の遡上も年々少なくなってきたと聞いています。
鮎を食べる「鮎かぎ」はここ数年見ていません。
この先、鮎は天然記念物、なんてことにならないように願うばかりです。

 
 

本堂天井吊木工事 完了

本堂の屋根裏の天井吊木の修理が完了しました。
まもなく建立して200年を迎える本堂は、数年前から小規模な補修工事が皆様の浄財によって行われています。
今年は、正月の元旦法要で新たに電気カーペットを設置した処、停電してしまい電源回路を増設してもらいました。最近の建物は各部屋毎にブレーカーがあるようですが、なんと20アンペアの回路一つということが判り、これでは停電するのも当たり前とのことでした。
工事に伴い本堂の屋根裏に入りましたが、その時に天井の吊木が中央の格天井を除いて総て釘が抜けていることが判りました。
改めて天井を見上げると、その為か天井が波うっているようです。
天井の工事となると埃が落ちるし参詣の皆様に不便をかけることもあり、又この次にと思いましたが、上を見るたびに気になり、掃除を覚悟して祖父の代からの出入りの大工さんに連絡しました。
他にも簾掛け・棚・等々の『こそくり仕事』もあり併せて工事に入ってもらいました。
産女観音 天井吊木産女観音 本堂小屋組

本堂内では十六羅漢さんの額が掛けられるよう造作してもらいました。
この額装十六羅漢図は、梅原猛先生の『羅漢  仏と人のあいだ』講談社現代新書に掲載されている、唐末の禅月大師貫休が描いた羅漢図を写したもので、作者は萩原鳳水(はぎわら ほうすい)さんで、曾て静岡市中野新田に住し、仏画から静物・美人画に至るまでの日本画を得意とした人です。
氏は若年、日本画を勉強し仕事の合間に絵を趣味で描いていたそうですが、退職後、いつしか寺院に仏画を納めるようになり、当山にも何回か訪れ、縁在って昭和五十四年十一月にこの羅漢図の写しが奉納されました。
今までは針金で引っかけて吊るしてありましたが、おかげで立派になりました。
又、お知らせを利用して他に行われた修復工事を紹介いたします。

産女観音 16羅漢産女観音 16羅漢

 
 

梅花大会の思い出

産女観音 山頭火短冊産女観音 オオヤマレンゲ

毎年この時期に開催される梅花流全国奉詠大会が東日本大震災の発生をうてけ中止となった。
梅花流は、曹洞宗で布教している御詠歌の流派で、その全国規模の大会は各寺院に設置された梅花講(御詠歌を学ぶ人の集まり)が参加して開かれる。
今年の大会は島根県出雲市「カミアリーナ」を会場に開催される予定であった。
2日間で一万人以上の人員が参加する大会に、私も地域の寺院の代表者として以前に参加講員を引率して山口県・北海道・山口県・埼玉県の大会に参加させて頂いた。
『分け入っても・・・』の写真は山口県の大会の記念品で、オオヤマレンゲを添えてみた。
この句は云うまでもなく「山頭火」の代表作であり、永平寺貫首 宮崎奕保禅師様が揮毫している。
山頭火は防府市に明治15年に出生し、放浪の詩人として知られているが、曹洞宗の僧侶として出家しており晩年 永平寺に参籠している。
永平寺では「てふてふ ひらひら 甍を超えた」と詠んでおり、悩み・憂いにみちた時代を過ぎ、サナギから蝶となって大きな山を超えた心境がうかがえる。                         平成17年に開催された山口県大会は、開会式の演出でドライアイスの霧のなかを進む衣姿の山頭火がとても印象的であった。
『分け入っても 分け入っても 青い山』緑に溢れたこの季節であるが、我々の悩み・苦しみ・欲・願望は尽きないものである。
昨日は朝日TVカルチャー受講生の皆様、明日からは地区中学校の生徒達が参拝に訪れる。お寺の歴史を紹介しているが、併せて今の自分が思っていることをお話させて頂いている。
参考にはならないかもしれないが、何か感じてくれれば幸いである。

 
 

蘭は幽谷に生ず

産女観音 セッコク産女観音 セッコク拡大写真
早朝本堂の勤行に続いて外の御堂を開き、お勤めに出かける。
つい先日まで寒さで下を向いて歩いていたが、暖かくなると自然に頭が上に向くようになる。
ふと見上げると、庭の樹木の枝の又に咲く『セッコク』の花が眼に入った。
あーもうこんな時期になったんだ・・・・・。
孔子の言葉に『蘭生幽谷,不以無人而不芳』とありますが、軸は永平寺60世を務めた
臥雲童龍禅師(1796~1871]の揮毫されたものです。
軸の揮毫では「而」の字が省略されています。
「蘭は幽谷に生じ、人無きを以て芳らずということなし」と読んでみました。
自然の花は総て時期が至れば咲きます。誰が見るとか見ないとかは関係ありません。
ややもすると私の為に咲いてくれたなどと思いがちですが、自分勝手な思考を諫めているようです。
明日は興津川の鮎の解禁日。新幹線の窓から眺め、小田原の御寺の施食会(お施餓鬼)法要に参加します。
除夜の鐘を撞いたと思ったら、もう施食会の季節になってしまいました。
産女観音 軸 永平臥雲禅師

 
 

5月15日は???

5月15日は現在の本堂を建立した黙旨賢道首座の命日です。天保二年(1831)に亡くなられた和尚様です。

産女観音 本源自性尼 位牌産女観音 黙旨賢道 位牌と、云っても旧暦の話ですから、季節的にはもう少し後になります。
ところで、当時の産女観音は、正式な住職がおけない地位のお寺でした。
士農工商の封建制度の時代、お寺にも同じような制度があり、判りやすく云うと、本店と支店の関係で、黙旨賢道首座は支店長のような地位でした。
但し、かなりの面で自由に経営は出来ましたが、葬儀等の法要には本店の和尚様が来て執行するすると云う制約がありました。この制度は明治まで続きましたが、それまでの檀家さん達は産女観音と本店のお寺両方に付届・御布施をしていました。
檀家数が少ない(35軒ぐらいかな)産女観音が古くなった御堂を再建するには経済的にも無理で、当時の駿河国の人々に寄進を願う他に方法は無かったようで、本源自性尼と云う尼僧さんが托鉢をしながら先触れとして本堂建立願いを知らせ、その後、檀家さん達が手分けして国内をまわって浄財を集め今の本堂が建立されました。
産女観音 本堂建立・托鉢帳産女観音 本堂寄付帳 2産女観音 本堂寄付帳 1

支店長時代の記録は店長がいつ代わるか判らない為、すべて庄屋(檀家総代)さんの蔵に保存されたようで、当時の資料がつい最近、総代の蔵で見つかりお寺に里帰りし、尼僧様のことも知った次第です。
まもなく建立200年を迎え、お参りの方々の有難い浄財で毎年、毎年部分的しか出来ませんが補修修復工事をして一日でも永く維持出来るよう頑張っています。

 
 

初夏にむかって

産女観音 永平雪鴻 清風何色

毎年、五月人形を納戸にしまう時、扇風機を出して本堂の鴨居に取り付けます。
今年は新茶の摘み取りが一週間以上遅れ、産女は一昨日辺りから製茶工場の音と香りに包まれるました。
永平62世鉄肝雪鴻禅師書『清風何色』横一行を掛けました。
この四言は従容録第74則「法眼質名」の頌にあり、白雲無根に続く句です。
空に浮かぶ白雲は別に根が在るわけでもないし、今日の風は○●色なんて云うときもありますが別に風に色がついているわけでもありません。
説明のしようのできないもの、そのようなものを清風・・と云っている訳です。
玄関には蓮月尼の「くもとみし さくらハあともなつやまの 青葉にかをるかせのすすしさ」の和歌と苧環・都忘れ・梅花空木を活けてみました。
扇風機を出した途端、急に気温が上がり真夏の気候に体がついていけませんが、今年の夏はどうなるのでしょうか?
冬寒く、夏暑いのが寺の建物ですが、それでも夏用に出来ていて多少涼しいようです。
では、節電に心がけ夏をむかえましょう!
産女観音 玄関の花

 
 

床間の花 宝鐸草 射干 紫蘭

産女観音 床間産女観音 鐘楼堂宝鐸草(ほうちゃくそう) 射干(シャガ) 紫蘭(しらん)を飾りました。
宝鐸草は堂塔の軒先に下がっている宝鐸・風鐸に似ているのでこの名がついたそうです。
写真は産女観音鐘楼堂の軒四方に下がっている宝鐸です。
よく似てるでしょ!
ところで、紫蘭(しらん)には思い出話ががあります。
花に縁が無かった頃の私は、どんな花でも名前を尋ねられた時は
いつも『この花は蘭の一種で「しらん」別名を「わからん」といいます』
と答えていました。真面目な顔で話す私に、質問者は『なるほど』とうなずきましたが
直ぐ駄洒落と気がつき、大笑い。
しかし、本当に「しらん」『紫蘭』という名前の花があることを知り、
以後「わからん」とだけ答えています。
最近、写真のように紫蘭のなかに白色の花を見つけました。
紫蘭の変化したものでしょうか。ところで
この花なんて云うのかな??  『わからん』????

産女観音境内の紫蘭

 
 

五月人形

産女観音 五月人形五月人形を飾りました。
私の時は天神様を飾ったそうですが、結婚して長男が生まれると義父がとても喜び、誕生して直ぐに写真の人形を届けてくれました。
あれからもう二十年。今では子供も大学生となり、主のいない人形を飾りながら、
いつまで飾れば良いのかなー?なんて自問しています。

産女観音 崇山少林寺 志覚法師人形に合わせて床の掛軸は
『三級浪高魚化龍』中国の登竜門の故事を詠んだ句で、
筆者は中国河南省崇山少林寺(少林寺拳法で有名な寺です)の志覚法師です。

玄関には三島市の龍沢寺に住職された、中川宗淵老師(密多窟と号す)の
『若葉風 ふくたび峰の 光かな』の句を掛けてみました。

もうまもなく五月。
産女の山々は緑の絨毯が敷かれ、新茶の匂いに包まれます。

 
 

牡丹が咲きました

産女の牡丹牡丹が咲きました

毎年正月に咲く牡丹を島根県から求め、

花がおわると山に植えて増やしています。

産女観音 床の間の牡丹早速、床の間に飾ってみました。

一口吸尽西江水    一口(く)に吸尽(きゅうじん)す 西江(せいこう)の水

洛陽牡丹新吐蘂    洛陽の牡丹 新(あら)たに蘂(ずい)を吐く

とありますが、裏山の手入れ作務の休憩で、花を眺め、眼下に広がる藁科川を見下ろした時、

一口吸尽藁科水    産女牡丹新吐蘂     そんな心境になります。

産女山からの風景

 
 

熊谷草が咲きました。

産女観音内庭の熊谷草10年以上前、檀家さんが産女の山から寺の内庭に移植しました熊谷草が今年も咲きました。
熊谷草は日本の野生ランとしては 最大の大きさで、レッドデータブックの絶滅危急種だそうです。
植えた当初は葉のみでしたが、3年前からたった一輪ですが花をつけるようになりました。
熊谷草は土壌が肥えていないとダメと云う話を聴き、これでもかという位に肥料を与えました。
結果は

花が二輪、葉が3枝、なんと以前の二倍になりました。産女観音の熊谷草

『地肥茄子大』 地(ち)肥えて茄子(なす)大(だい)なり という禅語がありますが
肥えた農地のナスは大きくなる、実にそのとうりでした。
もっとも、本来の意味は優れた師匠の下で修行した弟子は立派な禅僧になると云うことです。
跡継ぎを育てている私には耳の痛い言葉です。

 
↑ ページトップ